祈り合う仲間を求めています

少々長いですが、読んでいたければ幸いです。

本当は、このサイトは未信者の方、求道者の方、そして教会につまずいてしまった方のためのサイトとして作成しました。ですから、タイトルが「教会行こまい!!」なのです。教会に行かれていない方々に主イエス・キリストの福音を宣べ伝え、教会の大切さをお伝えするのは大切なことです。それで、このサイトを作り始める計画を立てていたのです。けれども、作り始めているうちに、もうひとつ、私には大きな課題が残されていると感じ、そちらの方を優先させることになってしまいました。それは、教会内部での霊的な戦いです。

前世紀、20世紀という時代は大変な激動の時代でした。前半は、独裁主義・絶対主義が横行し、その反動として後半は、民主主義・相対主義が進みました。人間というものは、顔が千差万別あるように、めいめいがそれぞれの思想やイデオロギーを相対的に持っていて当然です。しかし、その思想に対する評価は、社会のあり方で決まります。たとえば、絶対王政の中で、「王は何の権力も持たない」と言う人がいたら、その人は「間違い」とされるでしょう。しかし、相対化された社会の中では、それは一つの思想・意見として、取り上げられるでしょう。もしも、絶対王政のときにそれが「間違い」とされなかったとしたら、その時点で、もはや絶対王政ではなくなっているということなのです。なぜなら、絶対王政の原則や定義から外れるからです。

では、これをキリスト教会のことに置き換えてみます。キリスト教会には、絶対不変の原則があります。それは、神が絶対者であるということです。そして、キリスト教会の中だけでなく、すべての世界においても、神は絶対なのだと信じていることです。絶対王政の中において王の絶対性を否定する主張がまかり通った時点で、もう絶対王政ではないように、キリスト教会が神の絶対性を否定した時点で、それはキリスト教ではなくなるのです。

20世紀後半の相対化の嵐、反体制の嵐の中、キリスト教会も打撃を受け、崩壊が始まってしまったのです。教会の中で、神の絶対主義よりも、人の相対主義が重んじられるような風潮になっていったのです。教会のあらゆる会議は、神のご意思を具体化、実現するためのものであったはずなのに、絶対者のご意思は忘れ去られ、相対化された個々の人間の主張ばかりが飛び交うようになってしまいました。

たしかに、私たちすべての者の救い主であられるイエス・キリストは、神の栄光を捨ててへりくだられ、社会で虐げられているような人々を大切にされました。しかし、その恩寵は常に、父なる神からのものであったことを忘れてはなりません。御父が御子キリスト・イエスを遣わされたのです。つまり聖書全体の主語は、神なのです。私たちがキリストに、父なる神に向くときには、そこに見えない聖霊の御助けがあることを忘れてはならないのです。

つまり、この世界の中心は神だということです。だから、神を「主」と呼ぶのです。「主よ、主よ」と言いながら、神ではなく、自分を主としてしまうのが、罪深い私たちの姿なのです。聖書には「偽善者」という言葉がよく出てきますが、これは仮面劇の「主役」という意味です。

神中心でなければ、もはやキリスト教ではありません。その神はどのようなお方だったのか、そして、どのように救いの御業を成し遂げられたのか、それを人間の言葉で伝えたのが聖書であり、それを明文化したものが、ニケア・コンスタンティノポリス信条に代表される基本信条なのです。これらは、聖霊の導きのもと、教会の中で成立したものです。ですから、教会の中で、聖霊の導きに従って解釈され、説かれなければならないのです。

現代の教会は、力を失ったと言われたりします。私の属している日本基督教団なども、信徒は減ってきています。なぜ、力の神がおられるのに、そんなことになるのか? その答えは簡単です。教会を、聖霊の宮としてお献げしていないからです。神のものを、わがものとして奪っているからです。神にとっては、私たちから奪い返すことはたやすいことですが、私たちが自ら気づいて、心から悔い改め、教会を、自分をお献げするようにと、そのまま待っておられるのです。今すぐ、悔い改めましょう。

「一部の人たちが悪いのだから、私は悔い改める必要がない」というのは、違います。もしそうなら、キリストが望まれる愛と一致とを見失っています。教会は一つだからです。体の中で、ほかよりも弱く見える部分は、覆う必要があります。ハムは、その父ノアの裸を覆わなかったため、呪われました。自らの罪として、とりなし、神に悔い改める必要があるのです。主は、こんな罪人である私たちの罪をとりなしてくださったのです。一万タラントの借金を許してくれた主人に、百デナリの人を「あいつは返していない」と訴えるようなものです。

もうひとつ、教会が力を失ってしまっている点は、主の御心に従って一致していないからです。上記の例のように、「あいつらは間違っている」と言い、愛を伴った勧告をすることをしなければ、それは、主の体を引き裂いていることになります。なぜなら、私たちは皆、罪人だからです。何も誇れることはありません。私たちはただキリストの憐れみによって一つにされたのです。分裂は、破滅をもたらします。悪魔は、ギリシア語でディアボロスといいますが、「告発者」という意味です。互いに裁き合うのは、悪魔に心を許すことです。

主は、すべての人が一致することを求めておられます。その一致点は、キリストしかありません。偏狭と思う人がおられるかもしれませんが、これを無くしたら、キリスト教ではなくなります。逆に、これによって一致するのです。つまり、キリストを絶対と認めて、教派を相対化するのです。なぜなら、他教派の人々は、他宗教の人々ではなく、同じおひとりのキリストにある兄姉たちだからです。教派ごとにキリストがおられるわけではないからです。他教派の兄姉と一致すべきことは、主の御心を尋ね求めれば、おのずと答えが出てきます。一致ということは、「愛をもって祈りを合わせること」です。ですから、へりくだることはあっても、自己否定する必要はありません。自らの伝統を固守してもよいでしょう。しかし、相手を見下したり、裁いたりしては、主が悲しまれます。

つまり、この地上にいる間、私たちはいかに、心を合わせて愛し合い、祈り合い、福音をまだ届いていない友と分かち合いつつ、主の来臨を待つことができるか、これにかかっています。もしもあなたが、心を同じくして、この霊的な戦いに、人の思想ではなく、神の武具を身につける同志であられるならば、メールをいただければありがたいです。お互いに祈り合っていきましょう。

天の父なる神様、御子イエス・キリストによって立てられたあなたの教会が、あなたの御心にかなった聖なる真の神の国として、導かれますように。私たち、憐れみをもって召し出された一人一人が、おそれと感謝と真心とをもって、あなたにお仕えすることができますよう、どうか、聖霊をお遣わしください。光栄は、父と子と聖霊に、昔も今もいつも世々限りなくありますように。アーメン。

最後に、私にとって非常にためになった資料をご紹介します。澤田昭夫著「カトリック教会の左傾化」http://hvri.catholic.ac/sawada.htm

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