教会に行ったことのない方へ

人は何によって生きるのでしょうか……?

人は食べ物によって生きます。食べ物を食べなければ、すぐには死にませんが、どんどん弱っていきます。

人間には肉体があります。肉体を生かすためには、肉体用の食べ物が必要です。あなたは、毎日ご飯を食べていますか? 結構なことです。食べなければ、肉体は弱ってしまいます。あなたは、そうならないように、きちんと自分の肉体をケアしているわけです。当たり前のようですが、これは生きていく上で大切なことです。

しかし人間は、肉体だけの単純な生き物ではありません。心があります。心も肉体と同じように、食べ物が必要なのです。そう、心の食べ物が。心が飢え、渇いた経験はありませんか? 誰かに慰められたり、優しくされたりして、生きた心地を取り戻した……という経験はありませんか? もしも今、何か空しさを感じているなら、それは心の食べ物が必要なのです。人は愛し、愛されることによって、心の食べ物を得て、生きていくことができます。私たちは、誰一人として独りでは生きていけません。なぜなら、独りでは愛することができないからです。

動物は、その種類によって、程度の差はあっても、体と心を持っています。ただ、動物にとっては心は人間ほど大切ではないかもしれません。確かに、ある程度の感情はありますが、動物は人間のように、悩みをかかえて苦しむということは、おそらくないでしょう。逆に言えば、私たち人間にとっては、「心」の部分がとても大切なのだということがわかります。

あなたは、心のケアを大切にしていますか? 心の食事をきちんと取っていますか? 心の食事は難しいです。なぜなら、相手が必要だからです。肉体の食事は、独りでもできるのに、心の食事は独りでは無理なのです。もっとも、ごまかすことぐらいならできますが……。

周りの人とのコミュニケーションがうまくできている人は、心も整っているでしょう。しかし、これがなかなか難しいのです。自分とうまくいく人と、うまくいかない人がいるのです。私たちは何と自分勝手なのでしょう。うまくいく人とは仲良くし、うまくいかない人を遠ざける…… しかし、これで心は満足するでしょうか? 確かに、それで満足していることもあるでしょう。しかし、人間にはもう一つの部分があるのです。

実は人間には、肉体と心のほかに、「神の似姿」の部分があるのです。私たちの「良心」といってもよいかもしれません。良心の呵責(かしゃく)という言葉があります。自分の悪い行動に対して、もう一人の自分がとどめる ことです。マヒしてしまうと、もうストップが効きませんが、この「良心」は、自分を悪から救おうとするのです。なぜなら、人間は悪の中では滅びてしまうことを、この良心=「神の似姿」は知っているからです。

人間は、この三つの部分から成っています。肉体、心、神の似姿……。どの部分も大切です。しかし、あえて言うなら、「神の似姿」を満足させることが一番重要でしょう。なぜなら、神の似姿は今、一番飢え渇いているはずですから!

人間は、「祈り」を知っています。祈りは神様との対話です。人間だけに与えられた祈りの特権を使いましょう。祈ることが、神の似姿にとっての食事です。人間は、ここで神様とつながっています。

神様は、あなたをこよなく愛しておられます。私たちが反抗期の子供のように、どれだけ無視しても、神様は子を愛する親のように私たちを暖かく見守っていてくださいます。なぜなら、私たちは神の子なのですから。

そして、子供にとって何が一番よい物なのかは、その親が知っています。子供は、目先のことにとらわれてしまいますが、親は子供にとって本当に重要なことを知っているのです。子供は、合成着色料のたっぷり入ったきれいなお菓子を欲しがるでしょう。しかし、親は、それが体によくないことを知っているのです。子供は、のどが渇いたときにジュースを欲しがります。しかし親は、ジュースでは再びのどが渇いてしまうことを知っているのです。私たちは、色々な欲があります。けれども、それが自分にとって本当によいものかは、自分ではわからないのです。それは……神様が知っておられるのです。

神様は、私たちがご自分から離れていくままにされました。人間を束縛はなさいませんでした。なぜなら、人間を「自由な者」としてお造りになったからです。けれども、私たちは不幸なことに、自由を使って、自分を不自由に陥れてしまったのです。神様から離れることが、本当の自由だと思ったのが間違いでした。神様から離れたところでは、どんどん飢え渇いていくのです。

神様のみそばで、愛と恵みと祝福を受けて生かされていたのに、離れたところで、私たちは帰る道を失ってしまいました。どこに求めたらよいのか……わかりません。迷ううちに、飢え渇き、自分を造ってくださった神様のことも忘れ、別の神様を作り上げて助けを求めたりしました。それも、バカバカしくなり、はかない楽しみを追い続け、求めても得られない飢餓状態の中で、自分を責めたり、人を傷つけたり……

しかし、そんな泣いている私たちのことを、神様はお見捨てになりませんでした。私たちは、神様を裏切りました。けれども、神様はそれを赦すため、「救い」を私たちのために与えてくださいました。それが救い主イエス・キリストだったのです。

神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛してくださった。
それは、その独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。

新約聖書ヨハネによる福音書3章16節

飢え、渇き、苦しむ私たちと共に、いやそれ以上に救い主は、その辛酸をなめ尽くされました。生まれたときは、家畜のえさ入れの中に寝かされ、死んでいくときは、裸にされ、鞭打たれ、ツバを吐きかけられ、侮辱され、十字架の上に死刑に処せられたのです。決して格好のよいヒーローではありませんでした。

しかし、それはすべて、私たちを救うためになさったことだったのです。「すくう」とは、金魚すくいでもそうですが、下から救う必要があります。私たちの受けるべきものを、救い主はすべて代わりに受け、私たちの誰よりも下へ降られたのです。それは、すべての人を救うためでした。けれども、救い主は、三日目に死を撃ち破り、永遠に生きるものとなられたのです。それは、私たちを死から救い、私たちも永遠の命を得るためです。再び神様と、共に生きるようにと、救い主は命の道を開いてくださったのです。

人間は生きています。生きているものは、生きようとします。死は、生きているものにとっての恐怖です。これは当然のことです。ここで与えられる永遠の命とは、私たちはもう決して死に脅かされることはないということです。

すべての人は、もう死なないのです。と言っても、この肉体は、いつかは死を迎えます。しかし、すべての人は新しい体が与えられて、復活します。なぜなら、すべての人の救い主が、すでに死を撃ち破ったからです。もう、死はその力を失っているのです。ですから、キリスト教の葬儀では、死を悲しみとはしません。告別式とは言いません(言っている教会もあるようですが……)。死は、復活の時を待ち望む眠りの時にすぎないのですから。

教会で、日曜日礼拝があるのは、この復活の勝利を讃えているのです。私たちに与えられた、命を喜んでいるのです。日曜日が休みだから礼拝しているのではないのです。古代のクリスチャンたちが280年も祈り続けて、ようやくキリスト教がローマ世界の国教と認められ(ミラノ勅令313年)て、休みになったのです。

この礼拝こそが、神様からの祝福を受ける場所、まことの「神の似姿」を回復するところです。神が救ってくださった、そのことを皆で喜ぶところです。

あなたの上にも実は、この救いの恩寵があります。対象者は、すべての人です。条件は何もありません。お金も、地位も、名誉も、能力も、力も、美貌も…… 何もいりません。必要なのは、神からあなたに与えられている祝福を、愛を、命を、素直に受け入れる姿勢です。

神は、あなたが本当に幸せに生きられるようにと、今もなお、道を用意して待ってくださっているのです。救い主は、このようにおっしゃっています。

見よ、私は戸の外に立ってたたいている。私の声を聞いて戸を開ける者がいれば、誰でも、私はその中に入り、その者と共に食事をし、その者もまた私と共に食事をする。

ヨハネの黙示録3章20節

疲れた者、重荷を負っている者は、誰でも、私のもとへ来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。

マタイによる福音書11章28節

救い主は、あなたを食事の宴に招いておられます。真の食事、「神の似姿」の食べ物は、教会で無償でいただけるのです。教会行こまい!!

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