本当に、神の愛がアガペーで、人の愛はエロースなのか?

よく、神の愛はアガペーとか言われます。そして、人間のエロースとは違うのだとか言われます。しかし、聖書原文にはエロースなんて言葉はどこにも出てこないことはご存知でしょうか?

確かに、ギリシア語には、アガペーとか、エロース、ほかにもストルゲーとかフィリアーなどの言葉が存在します。しかし、聖書に出てくるのはアガペーとフィリアーだけなのです。そして、神だけでなく、人間に対してもアガペーが使われています。頻度としては、人間の方が多いぐらいかもしれません。新約聖書の中で「愛」と訳されている語は、日本聖書協会の口語訳聖書などでは、100%アガペーなのです。

アガペーというのは、キリスト教が新しい意味を与えた言葉で、無条件の愛を指します。神の愛はもちろんアガペーです。でも、その愛を受けた人間もアガペーをもって、人を愛するわけです。つまり、キリストによって神のかたちを回復するわけです。「光の子として歩きなさい」(エフェソ5:8)という言葉も、世の光であるキリストと同じ光を持たなくてはおかしいわけです。つまり、伝道とは、キリストが私たちを無条件に愛してくださったのと、同じ愛をもって、隣人と命を分かち合うことなのです。ですから、アガペーは神の愛であると同時に、神に愛された人間の愛でもあるわけです。無条件の無私の愛を指すのです。愛の本質と言ってもよいでしょう。

一方、フィリアーというのは、何とヤコブ4:4にしか現れません。その動詞形は26回現れます。現代ギリシア語では「接吻する」という意味です。新約聖書でも、ユダが接吻するときにこの語が用いられています。好むという意味もあります。よく、「フィリアーは隣人愛のこと」とか言われたりしますが、そうとも限りません。人間の情緒として「好むこと」とか「愛しく思うこと」が、このフィリアーです。もちろん、愛の情緒面も、このフィリアーに入ります。だから、接吻するのです。

ストルゲーというのは、聖書には出てきませんが、肉親愛を指す言葉です。肉親ならば、ストルゲーを持つと共に、アガペーもフィリアーも持つでしょう。現代ギリシア語では、聖書ギリシア語のフィリアーのような意味を持ちます。

エロースは、恋愛です。愛というより、恋と訳した方がよいでしょう。

以上のように、愛に4種類あるわけではなくて、それぞれの定義づけがあるわけです。それぞれの言葉は、愛の色々な側面について表す語であるわけなのです。ではなぜ、エロースが人間愛とされてしまったか…… それは、西洋の哲学用語から来ています。ギリシア語のアガペーとエロースを借りて、神の愛、人間の愛と定義してしまったのです。しかし私は、これに対してもの申します。せっかく仲保者なる主イエス・キリストが来てくださったのに、この哲学から神と人とを分離する神学を発展させてしまったのです。あのアタナシオスが「神が人となられたのは、人が神となるためである」と言った事をもう一度、反芻する必要があるでしょう。

誤解のないように申し上げますが、アタナシオスは、多神教ではありません。また、ほかのところでとりあげることにします。

天のお父様、あなたはこんな罪人にすぎない私たちを愛してくださり、あなたの愛しておられる御子イエス・キリストを私たちの世にお送りくださいました。独り子をこんな私たちのために与えてくださったその愛、御子の十字架の死に至るまでその身を捧げてくださったその愛、また、常に私たちを導びいてくださる聖霊の愛、私たちは幸せ者です。心より感謝いたします。どうか、三一のあなたからいただいたその愛をもって、この世に私たちを遣わしてください。キリストがその身を捧げられたように、私たちも隣人にその身を捧げることができるよう、力と勇気と信仰とを増し加えてくださいますように。愛の主イエス・キリストの御名により、お祈りいたします。アーメン。

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