悪魔は本当にいるのか?

ずばり結論から、申し上げましょう。います。ただし、コウモリのような格好をしていてしっぽが矢印になっているような姿ではありません。

天使が基本的には、見えない霊的な存在であるように、悪魔も基本的には目には見えない霊的な存在です。コウモリのお化けみたいな絵は、それを具象化して描いたものですので、「悪魔」と聞いて、そういう姿を想像してしまうと、「バカバカしい」ということになってしまいます。

しかし、実はそれが危ないのです。悪魔は、人間を罪に誘い、神から離し、滅びに向かわせる専門家です。あらゆる手だてを尽くして、人間を滅ぼそうとします。騙すこと、欺くことは、プロ中のプロです。「バカバカしい」「そんなものいない」と思わせて、私たちに心の隙を作らせるのです。もしも、悪魔がいなかったなら、クリスチャンは、教会はこんなに苦しまなくてもよいでしょう。また、洗礼を受け、聖霊を受けたのであれば、罪に誘われることもないでしょう。あなたは、故意の力に誘惑された経験はありませんか? 悪魔は、専門家だと言いました。人間よりも一枚上手です。力の面では、素手では絶対に負けてしまいます。また、知恵の面でも、私たちが正面からぶつかったのではかないません。

悪魔の常套手段は、自分の身を隠すということです。その方が仕事がしやすいからです。忍者だって自分の身を隠すのです。悪魔も同じで、「悪魔なんて、そんなものいるはずない」と思わせるのが、悪魔の手段なのです。ついでに、「神もいるはずない」と思わせれば、悪魔にとってしめたものです。私たちは、聖書が悪魔について伝えてきたことに、唯物論的な解釈を加えて、ねじ曲げてはなりません。「悪魔というのは、人間の罪の誘惑の古代人による擬人化」というのが、教会の中でさえ、まことしやかにささやかれたりしますが、それは欺瞞です。

聖書の中にこんな一節があります。

今からは、主にあって、その強い御力によって強くなりなさい。神の武具を身につけなさい。悪魔の策略に向かい、立つことができるために。私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、支配、権威、闇の世界の主権、天上の悪の諸霊に対するものなのです。

ヘブライ人へ6章10〜12節

もしも、悪魔の存在を否定してしまうのだったら、上の聖句はどう理解すればよいのでしょうか? 「空を打つような拳闘はしない(Tコリント9:26)」と使徒パウロもおっしゃっています。私たちクリスチャンは、勝利者キリスト・イエスに従い行く者なのです。

御神に感謝! 私たちを常に、キリストの内にあって凱旋させ、どこにあっても、私たちを通してキリストを知る知識の香りをあらわにしてくださることを。

コリント人へ下巻 2章14節

平和のために、神の武具を身につけて、主の御力によって悪魔と戦う者こそ、クリスチャンなのです。私たちの敵である悪魔とは、すなわちこのような者です。「ディアボロス(告発者)」、「アポリオン(破壊者)」、「アバドン(破壊者)」、「サタン(敵する者)」、「ベエルゼブル(ハエのバアル[主人])」、「ベリヤアル(無価値)」、「マステマ(敵意)」…… これらは、すべて聖書に出てくる悪魔を表す単語です。また、「この世の君主」とか「空の権を持つ君主」、「反キリスト」など、いろいろな呼び名があります。つまり、私たちの敵であり、私たちを告発し、破壊する者、無価値な思い(背徳)に誘う者です。

戦いで、敵を知らないということほど、不利なことはありません。敵の存在を認めない戦いなど、ありはしないのです。戦いといっても、「私たちvs悪魔」ではありません。「神の陣営vs悪魔の陣営」です。ですから、勝負はもう既についているのです。勝利者は、復活の主イエス・キリストです。しかし、それでもなお、私たちを神の陣営から離反させようとたくらむのが悪魔です。決して侮ってはいけません。悪魔は、滅びの道連れを常に探し回っているからです。

悪魔は、私たちの教会の内部に、告発の種、お互いに裁き合い、ののしり合う種、分裂の種を蒔き続けているのです。主の教会、主の王国のために…… 騙されないよう、常に勝利の主イエス・キリストを見つめながら、歩んで行きましょう。


天のお父様、私たちを御子キリストからはぐらかそうとたくらむ者がいるのです。私たちは弱くても、キリストによって、聖霊の御力を頼りとして、歩むことができますよう、お導きください。そして、常にあなたの御心に沿うものかどうか見分ける知恵をお与えくださいますように。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。

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