「聖書のみ」のプロテスタントに「伝承」は必要ないのか?

プロテスタントには、「聖書のみ」「信仰のみ」「万人祭司」という三つの原理があります。「聖書のみ」ということで、聖書を正典、神の啓示と信じることは、当然なのですが、「聖書のみ」ということは、伝承は廃棄するということなのでしょうか?

宗教改革者たちが「聖書のみ」と主張したそこには、福音の原初に立ち返るという意味が含まれていました。それまで、一般には「規範と言えば教会」であったわけで、規範である教会を弾劾するとなると、聖書を規範とする必要がありました。しかし、聖書はラテン語で書かれており、理解する民衆は少なかったのです。そんな中で、その土地の言葉に翻訳が進められていきました。また、グーテンベルクによって、活版印刷が発明され、民衆にも聖書が身近なものとなっていったのです。

聖書を規範とすることは、正しいことです。それは、当時のカトリック教会も、もちろん認めていました。けれども、純粋にそれを徹底したのが、宗教改革でした。何事にも、プラスの面、マイナスの面があるように、この宗教改革にも両面がありました。分裂・分派を生じ、争いを生んでしまった宗教改革の出来事は、その悲しみと同時に、聖書を普及させるという恵みを生じたのです。

教会への抗議(プロテスト)から、宗教改革は起こったのですが、しかし、教会自体を否定したわけではありませんでした。ここが大切なところです。無教会の集会とはならず、新しい教会を形成していったのです。当時は、以上のような文脈があり、「聖書のみ」と言われました。しかし、今は違います。

聖書は唯一の正典であり、変わることのない神の御言葉であるという事実は、もちろん、今も昔も変わりません。しかし、相対化のこの時代には、聖書の普及によって、教会を離れたところで様々な解釈が生じてきたのです。それだけではなく、教会の中にさえも、聖書への曲解が持ち込まれているという危機が迫っているのです。悪魔は、聖書の言葉から逃げることをしません。かえって利用し、私たちを惑わし、苦しめるのです。マタイとルカの4章をご覧ください。悪魔は、何と聖句を用いて神の子を試みているのです!

聖書をもって試みる悪魔に対して、主イエス・キリストは同じ神の言葉をもって答えます。つまり、「悪魔は字面によって私たちを試みるが、霊をもって切り返すことができる」ということです。こう書いてあります。

神は、私たちを新約すなわち、文字ではなく霊にお仕えするのに十分な者としてくださったのです。この文字は滅ぼしますが、この霊こそは、命を与えるのです。

コリント人へ 第二 3章6節

聖書は書かれた「神の言」、「霊の働き」です。私たちは、その字句に仕えているのではなく、それをお書きになったお方にお仕えしているのです。聖書には福音の真理が記されています。しかし、教会は、それを具体的なものとするキリストの体なのです。私たちは、頭で理解して救われるというのではありません。体をもって信じて救われるのです。

もし、あなたの口において、イエスを主と告白し、あなたの心において、神がイエスを死人の中から起こしたと信じるなら、救われるのです。つまり、心で義を信じ、口で救いを告白することです。

ローマ人へ 10章9〜10節

教会自体を否定することは、告白し救われた体を否定することであり、救い主であるキリストを否定することです。確かに、教会の中の人間は、弱く、罪深く、間違いを犯すことがあるでしょう。しかし、教会が罪を犯すのではなく、教会の中にいる人間が間違いや罪を犯すのです。一体、誰が教会を否定して聖書を正しく解することができるのでしょうか? 教会それ自体、伝承であるのです。もしも、あなたがクリスチャンなら、あなたもその伝承の一部として、次の世代へ福音をお伝えしていくのです。

聖書は、教会が編纂したものです。聖書それ自体も、すべて教会が伝えてきた福音の「伝承」を元に作られているのです。また、使徒信条や信仰告白、三位一体なども聖書に直接出てきません。「伝承」です。プロテスタントの「聖書を重んじる伝統」は、大切でしょう。しかし、字面通りに「聖書のみ」で、伝承の介入を全く許さないとするならば、主日礼拝の説教(メッセージ)や証しは、無くしてしまわなくてはならなくなってしまいます。説教や証しそれ自体、伝承なのですから。主日礼拝は「聖書」が読まれるだけ、讃美歌も禁止なんてことになってしまいます。逆に伝承がなかったら、文字の一人歩きが可能になり、どんな勝手な解釈も許されることになったりして大変です。

世の中では、ともすると教会の中でさえ、もはや中世の「聖書が絶対」という前提は覆されていたりします。大切なのは、文字ではなく、霊なのです。「聖書のみ」という言葉さえも、それは宗教改革者の言葉であって、聖書の言葉ではないことを知ることが大切なのではないでしょうか。「聖書のみ」という字句ではなく、「聖書のみ」と宗教改革者たちに語らせた聖霊にこそ、耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。

天のお父様、主イエス・キリストが生きた神の御言として、私たちの世に来られたことを感謝いたします。今も生きておられる、あなたの御子、主イエス・キリストを、私たちが本当にこの生身で信じることができますように。今も、私たちを信じさせ、今も祈らせてくださる聖霊の御導きを常に感じて感謝させてくださいますように。教会が伝えてきたことの素晴らしさを、その躍動する命を、私たちも受け、伝えていくものとしてください。そして、聖霊の御働きをもって、私たちに正しく聖書を理解させ、恵みの命にお導きください。永遠に生きておられる主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

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