礼拝の「献金」って、神様にお金を捧げること?

イスラエルへ行ったときのことです。あるユダヤ人にこんな事を言われました。「ユダヤのことわざによると、『金を天に投げても、自分の所に落ちてくるだけ』とあるが、キリスト教徒はなぜ神に金を捧げるのか? 神は金など受け取らない。」

確かにユダヤ教の祈り(礼拝)の中に、お金を集める行為は、私の知る限りありませんでした。その代わり、町のあちらこちらに「ツェダカー(正義・慈善)」と呼ばれる募金箱が置いてあり、人々はそこに施しのお金を入れるのです。また、道端に座り、お金を乞うている人にお金を施したりもします。

さて、プロテスタントの礼拝には「献金」というものがあります。週報などに礼拝順序が書かれていて、どこの教会も必ずといってよいほど、「献金」という項目があります。「献金」とは、字義通りに解釈すれば、「金を捧げること」です。確かに、礼拝時の行為としては、ここでお金を捧げるのですが、神にお金を捧げるというのは、あのユダヤ人の言葉を聞いてから、何かしっくり来ないのです。第一、貨幣制度というもの自体、人間が作ったものです。人間社会でしか意味を成しません。

神は、金を求めておられるのではないのです。そんな神は、新興宗教のニセ神です。では、献金は必要ないのでしょうか?

この地上の教会は、人間社会の中にあります。その存続は、何かのお金なり物質なりがないと、成り立たないでしょう。だから献金があるのです。けれども、献金ではなくて「献品」だけでもやっていけないことはありません。

今、ここで何が言いたいのかと言いますと、「献金」という言葉にとらわれてしまうのはよくない、と言いたいのです。「献金」という日本語の訳語に少々問題があったのではないでしょうか? 日本のプロテスタントの多くはアメリカやヨーロッパから伝わっています。英語では、献金のことをOffertory(Offering)と言います。つまり、このOffertoryを「献金」と訳したのです。けれども、本来の意味から訳せば「奉献」なのです! 実はこの「奉献」こそ、礼拝の中で大切な意味を占めているのです。

この「奉献(英語:Offertory ラテン語:Offertorium)」は、元来の順序で行くと、これは陪餐の前に行われていました。ここで、「感謝」が捧げられ、「祈り」が捧げられ、「愛」が捧げられるのです。しかし、それだけではありません。パンと葡萄酒が運ばれて捧げられ、同時に、「キリストがご自身を捧げられた」ことを見るのです。プロテスタントは、キリストの犠牲の一回性を強調するあまり、本来の「奉献」の意味を薄めてしまいました。ですから、「奉献」という訳語を避けたように思うのです。けれども「奉献」だからと言って、毎週毎週キリストがここで捧げ直されるわけではないのです。ただ一度きり、キリストが捧げられたことを、この「奉献」の時、時空を超えて、「今、ここで」見つめるのです! そして、キリストがご自身を捧げてくださったことを見つつ、悔い改めと感謝とを捧げるのです。それで、聖餐のことをEucharistというのです。語源は、ギリシア語の「エフハリスト」、すなわち「感謝」です。つまり、聖餐とは「感謝の祭り」のことなのです。

キリスト教の礼拝は、元来この「感謝」が中心となって編成されていました。「奉献」とは「感謝」の現れです。お金よりも何よりも、大切なのは「真心」です。

神(へ)の犠牲は、砕かれた霊。打ち砕かれた心を、神が下げすまれることはない。

詩51編19節(50編)

これは、有名な詩編の言葉です。この「もの申す!」のコーナーの引用聖句はすべて私訳ですが、慣れ親しまれている暗唱聖句とは反して、冒頭のところを「神(へ)の犠牲」としたのには、理由があります。原典では、「神―犠牲」とあり、どちらにも意味がとれるからです。英語聖書を持っておられる方は、参照してみてください。恐らく、「The sacrifices of God」などとあると思います。多くの日本語訳は、「神の求めるいけにえは……」などと意訳してあるわけですが、もちろんこれも間違いではありません。つまり、この聖句は、両方の意味が含まれている、とても含蓄のある聖句なのです!

  1. 神の犠牲、すなわちイエス・キリストのこと。
  2. 神への犠牲。これは、すでに神のものである。

確かに、主イエスは、身も心も打ち砕かれておられます。両方の意味が含まれているということは、まさしく私たちの礼拝の中での「奉献」と一致します。父なる神は、打ち砕かれた犠牲となられた主イエスに復活の命を賜ったように、打ち砕かれた犠牲として自らを捧げる私たちにも、復活の命を授けてくださるのです! 聖餐とは、キリストと共に私たちが奉献し、キリストと共に命(聖パンと聖杯)を授かるという、素晴らしい奇跡の礼拝なのです。

金を捧げるにしても、物を捧げるにしても、大切なのは、自分自身が本当に打ち砕かれて捧げられているか、なのです。

天のお父様、あなたの御子、私たちの主イエス・キリストが、打ち砕かれたご自身を私たちに、そしてあなたにお捧げになったように、どうか、私たちも打ち砕かれた自分を捧げられる者としてください。永遠に真の奉献者であり、真の奉献物であられる御子イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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