なぜ召天? なぜ告別式? 復活はどこ? 来臨は?

あなたの教会では、臨終の時を何と表現しますか? 召天ですか? 永眠ですか? 逝去ですか? 私は、ここに、非常に深刻な問題が潜んでいると思っています。キリスト教の根本教義に触れてしまうような事柄だと思っているのです。

この世での臨終を便宜上、「死」と呼ぶことにします。死んだら、私たちはどうなるのでしょうか? まさか、あなたはクリスチャンですから、タンバりんのように大霊界に行くとは思っていらっしゃらないでしょう。では、どうなるのですか? 確かに、聖書には明確かつ詳細な記述はありません。しかし、コリント15章のようなところを見ると「眠りについた」とあります。これは、たった一語ですが、極めて重要なことです。

眠りについた後は、どこにいるのでしょうか? 死人は、寝ているかのように見えます。昔はそのまま土葬にしたのです。今でこそ、火葬にすることがほとんどですが、昔は、土の中に眠らせたのです。教会墓地は、教会の敷地内にありました。つまり、人は死んでも生きている者と共にいるのです。主キリストのご復活により、死はことごとく滅ぼされました。ですから、死者と生者の隔ては何もないはずなのです。クリスチャンにとって、死はすでに乗り越えられているのです。しかし! 召天とか、告別式という異教的な呼び方が私たちの教会の中で使われているのです!

なぜ、お別れなのか? 共にいるという、あの聖餐卓を共に囲む聖なる命の会食はどこへ行ったのか? 礼拝において、私たちは生者も死者も神と一つにされるのです。今生きている人だけの礼拝だとしたら、むなしすぎます。ましてや、各個教会だけだとしたら…… 私の牧している教会など、10人そこそこ……寂しすぎます。けれども神の国は、そんなにちっぽけなものではないのです! 何億、何兆という、いやもっと大勢のクリスチャンたちと共に、国も民族も言葉も教団も超え、生者も死者もひとつの食卓を囲むのです。

「告別式」という呼び方は、死を蘇らせてしまっています。誰に別れを告げるのですか? 死が私たちに勝利し、私たちを分かれさせ、悲しませるのですか? ……違うのです。「私たちの甦り」を信じるのであって、死が蘇ってもらっては困るのです。

「召天」という言葉も異教的です。人は召天してどこへいくのですか? 神に召されるのならば、なぜ「召神」とか、「召主」とか言わないのでしょう? 「召天」という言葉をつかうところに、天国に行ってしまうと思い込まされているのです。私たちは、こんなまやかしにだまされてはいけません。すぐに天国へ行くというのなら、それは彌陀の本願に頼り、往生をとげる浄土真宗と同じようなものです。復活の白百合よりも、白菊の方が似合うようになってしまいます。

主は終わりの時、再びこの世に雲に乗って来られ、すべての人を復活させてくださるのではないですか? 私たちは、その完成の時を待ち望んでいるのではないですか? そのときに天国に行くのでしょう? 死んで天国に行くなどというのは、主の復活を軽んじ、主の再臨の希望をなくす異教の教理です。

私たちは、常に復活を信じ、終わりの時を待ち望み、マラナ・タ(主よ、来てください)と叫びつつ、「御国を来たらせ給え」と主の祈りを祈り続けるのです。もっと復活と再臨を徹底しないと、「永遠の命」が薄っぺらなものに聞こえてしまいます。どうか、祈ってください。教会はいつも異端と戦わねばならないのです。異端は外にある既存の特定グループだけではありません。いつでも、中から出てくるものなのです! 一緒に祈って行きましょう。

では「死ぬ」ことを何と表現すればよいのでしょう? 私は「永眠」が妥当ではないかと思います。「永眠」も決して完璧な言葉ではありませんが、「永遠に眠る」のではなく、神の国の始め=この世の終わりまで「永く眠る」と解せば、納得いくでしょう。

天のお父様、どうか私たちに、死に勝利された主イエス・キリストと同じ栄光に輝く希望をお与えください。死はもはや、私たちに何もなしえないこと、また主イエス・キリストが再び来られるその時を待ち望ませ、この地上にある限り、その命の福音を証しする者としてください。どうか、あなたの教会がこのことを正しく証しし、私たちも正しく信じさせてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

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