序章  教会における本質の探究

現代が激動の時代であることは今や周知の事実となっている。激しい変化の中で、あらゆる事柄が多様化と相対化の波に呑まれていくかのようである。その様な現代においては、恒常的なものよりは、変化に富むものを、「本質」を探究するよりは、時代の波に応ずることのほうが、人々の興味を引くように思われる。カトリックの典礼学者J・A・ユングマンは次のように述べている。

ものごとが変化するのは、現代の特徴となっている。それはどんな聖所の前でも止まることなく、また祭壇の前でも止まらなかった。教会も制度も、その本質に忠実であり続けると同時に、絶えず変化する周囲の状況に適応して行かなければならない。1

ユングマンはここで、「本質の確保」と「変化への適応」とを、現代の我々にとって必須の課題として提示している。ユングマンは、これまで「変化への適応」を進めて来なかったカトリック教会の立場から、そちらの方に焦点を当てているが、すでに相対化の渦に巻き込まれつつあるプロテスタント(この呼称については適切ではないと思うが、一般の慣例に従う)教会には、前者の「本質の確保」がとりわけ重要な課題であると思われるのである。

プロテスタント教会は、これまでも歴史の状況に対応し、時代的な要請を課題として取り組んできたという一面がある。しかし、そうした中でも、終始一貫して変わらず、保持し続けるべきであるとし、そうしてきたものがある。それこそが「本質」であり、変えてはならないものなのである。状況に適応しつつも「本質」に忠実であり続けることは、教会史全体を通して常に貫かれるべき課題なのである。では、教会における「本質」とは何か。教会における「本質」、それは、教会を「教会」であらしめるものである。

プロテスタントにおける「信仰告白」というものは、その教会の信仰というもの、また定義を明確に示しているが、プロテスタントにおいて、最も古い信仰告白であるアウグスブルク信仰告白(1530年)は、その第7条において、こう告白している。

また、われらの諸教会は、かく教える。唯一の聖なる教会は、時のつづく限り、つづくべきものであると。さらに、教会は、聖徒の会衆(Congregatio)であつて、そこで、福音が純粋に教えられ聖礼典が福音に従つて正しく執行せられるのである。2

これは、教会の「本質」について語っている。その中でも、教会が教会としてなすべき事柄として、「福音が純粋に教えられること」、「聖礼典が福音に従って正しく執行せられること」の2点が挙げられている。この役割を担うのが、「説教」と「聖礼典」である。また、現代の日本におけるプロテスタント合同教会である日本基督教団信仰告白にも、同じように教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ……とある。しかしながら、現状に目を留めれば、その「本質」が失われ、上記2点の事柄が、正しく執行されていない様子すら見るのである。具体的な例を挙げれば、未受洗者にも陪餐させる行為や、按手を受けていない者による聖礼典の執行などである。これらは、上記の事柄で言えば、後者すなわち「聖礼典」に反していると言えよう。前者「説教」に至っても、教会の中で「イエス・キリストの福音」、すなわち「十字架と復活」が正しく語られていない現状を見ている。つまり、「教会」という旗を掲げつつも、内部では教会の「本質」を失ってしまっているのである。ここで、求められることは、再び「教会における『本質』の探究」であろう。

教会における「本質」の探究として、行き着くところは、前に述べた「説教」と「聖礼典」である。そのうちの「聖礼典」に関する問題をこの論文では取り上げたい。それは、上に挙げたような明らかに「本質」を失っている一部の教会のみではなく、プロテスタント教会全体において、今少し聖礼典の意義を正しく理解することが必要であると思われるからなのである。プロテスタント教会においては、聖礼典よりも説教のほうが重んじられる傾向があり、その結果、聖礼典に関しての正しい認識が忘れ去られている危険度が高いからである3 。この点に関して、改革派教会の礼拝学者H・G・ヘイゲマンは、E・アーヴィングの報告を引用しつつ、次のように指摘している。

次に掲げるのはニュー・イングランドのカルヴァン主義を描写したものである。しかし、それは当時のイギリス、アメリカ、あるいは大陸における、どの改革派教会を描写したものと考えてもよいのである。……(中略)……キリストの働き(私たちの救いに効果ある道)は説教された御言であって、儀式やサクラメントではなかった。そのため、説教が興味の中心であり、礼拝の他の部分は導入ないしは従属的なものと見なされていた。主の食卓において陪餐者がパンを食しぶどう酒を飲むのは単なる記念の行為として、つまり、主とそのみ業をあざやかに想起させる手段であったと一般的に考えられていたのである。4

ヘイゲマンは改革派教会を念頭に置いているのだが、現代の教会の有様に対するその皮肉は、福音主義と称するプロテスタントの、どの教派にも当てはまりそうである。

あれこれ工夫が加えられていても、教会の平均的な会員に、なぜ教会に来たのかと訪ねれば、答えは十中八、九、『説教を聞きに』なのである。5

さて、この論文で取り扱う問題を「聖礼典」に絞ったが、今ここで、今一つ絞り切るための選択をするべきであろう。それは、「洗礼」か「聖餐」かということである。プロテスタント教会では、この二つを「聖礼典」に定めている。どちらも、前の「説教」と同じく、「本質」に関わる極めて重要な要素であるが、この論文では、「聖餐」を取り上げたい。

ギリシア語に、ΛΕΙΤΟΥΡΓΙΑという語がある。終わりのΙにアクセントをつければおおむね「礼拝」を指すことばとなり、語末のΑにアクセントをつければ、それはおおむね「聖餐」を指す6 。そのギリシア語が西欧に伝えられ、ドイツ語では、Liturgie、英語ではliturgyという外来語が生まれた。Liturgieは、おおむね定型文による礼拝儀式、広義では公的礼拝執行の体系を表す言葉だが、英語のliturgy は、「聖餐」を中心に「礼拝」を示す言葉である。この点、原語のΛΕΙΤΟΥΡΓΙΑにいくぶん近いと言える。日本では、今日に至るまで「典礼」という訳語が用いられてきた。それは、ドイツ語Liturgieの訳語として当てたものだと思われ、ほぼ同じ概念を持っている。しかし最近の日本では、「リタージー」もしくは「リタージ」という、英語のliturgyをそっくり輸入した言葉が使われ始めている。プロテスタント教会の聖餐の位置を捉え直す未だ数少ない気風が、この「リタージー」という言葉を用いるようになったと思われるが、この言葉の持つ「聖餐」を「礼拝」の中核となす語感は、プロテスタント教会において見直されるべき問題点を突いている。この論文では、「聖餐」を扱うと前に述べたが、厳密には「リタージー」を取り扱うのである。「リタージー」を取り上げる上で、必ずふれなければならないのは、聖公会の典礼学者G・ディクスの大著"The Shape of the Liturgy"にあるliturgy の定義であろう。訳出し、以下に示す。

'liturgy'は、使徒の時代より、『キリストのからだ』なる教会すなわちクリスチャンの『祭司的な』集団社会によって、神の厳粛な集団礼拝への参与に対して冠せられている名称である。'the Liturgy'とは、教会によって公的に組織されたその全ての礼拝を指す。また、全ての教会員に対して開かれ、全ての教会員によって捧げられる全ての礼拝、もしくは全ての教会員の名による全ての礼拝を概して指す用語なのである。それは、教会を構成する個々のクリスチャンの個人的な祈りとは区別される。また、教会内における選ばれた、もしくは自発的なグループ、例えば会合や協議会などの共同の祈りとも、区別されるのである。時代の経過の中で'the Liturgy'という用語は、とりわけ私たちの主イエス・キリスト御自身によって制定された儀式の執行を指すのに用いられるようになった。それは、『主イエス・キリスト御自身のもの』であるべきクリスチャンの特殊かつ固有の礼拝となるためであり、また、キリスト教礼拝とキリスト教生活の核であり心である聖餐あるいはパン裂きであり続けたのである。7

ディクスは明白に「聖餐」を「キリスト教礼拝とキリスト教生活の核であり心である」と位置づける。それは、いわば「本質」である。「聖餐」こそ礼拝の「本質」であり、「リタージー」を形作るのである。現に、日本聖公会では、主日の礼拝自体を「聖餐式」と呼んでいる。

以上、「聖餐」が礼拝の「本質」であることを概観してきた。それゆえに、この論文は、「本質」であるところの「聖餐」を中心として「リタージー」について論ずる。では、どのような方法によってか。

本論文では特に、聖餐と信仰の関係に注目しながら考察をすすめたく思う。そのような観点から古代教会の聖餐に着目することは、もちろん教会史的、教理史的課題であるのは、言うをまたないところであるが、同時に今日のプロテスタント教会に生じつつある聖餐の理解の乱れと混乱を覚えるときに、宗教改革者たちが試みたように、古代教会の礼拝の再検討・再解釈が神学の必然的課題となるからに他ならない。8

これは関川泰寛氏の論文の序文からの引用であるが、この論文もこれと同じ視点から、考察を進めていきたい。また、関川氏は、上記の文に注をつけ、そこでもこう述べている。

このような問題意識は、宗教改革者たちに共通して見られるところである。確かに大陸の宗教改革者は、礼拝の起源と原理について、深い歴史的知識を持たなかった事実がある。かれらが知っていた典礼は、ローマ教会(エラスムス注:カトリック教会のこと)のそれに限られていた。つまり、ガリア典礼である。従って東方教会の典礼については、ほとんど無知であった。しかし、かれらの問題意識は今日も受け継がれるべきものである。9

我々には、常に教会における「本質」が問われており、そこで「古代教会の礼拝の再検討・再解釈が神学の必然的課題とな」っているのである。ゆえに、この論文では、「原始教会のリタージー」を見つめることによって「本質」を再考したい。しかしながら、現在における聖礼典に関する乱れの理由的裏づけとして、逆に原始教会が取り上げられたりしているのは、皮肉なことである。しかしそれらの大半は、歴史的根拠もない詭弁をでっち上げたものにすぎない。原始教会を誠実に研究、あるいは再検討・再解釈するならば、おのずとそれらが虚構であることが明るみに出されるであろう。つまりこの論文は、原始教会を研究し、正しい認識をした上で、根も葉もない論理を打破し、「本質」を守ることにおける正しい聖餐理解を、主の「福音」主義教会へと回復させることを目的としているのである。

この論文は、このようにして「原始教会のリタージー」を取り上げ、その中に「教会の『本質』」を訪ね求める。それは、単なる歴史研究ではなく、それに学び、意義を明らかにし、相対化、多様化の時代にあって、教会を教会として守り続けていくことの表明なのである。

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