第一章

一、 仏教とキリスト教、双方における霊魂不滅の概念

およそ祖先崇拝には、その前提として必然的に霊魂の不滅、人格不死の信仰が確立されなければならないが、その先鞭をつけたのは実はキリスト教だったのである。

キリスト教においてこのことは、旧約聖書時代からの来世観念と、主キリストの復活と再臨との御約束とによって霊魂不滅の真理が確証された。この確信をもって直弟子ステファノは、迫害によって石で打ち殺されるとき、天を仰いで来迎の主を拝みながら、歓喜に満ちて死んでいったのである。(使徒言行録七章五四〜六○節) この復活による来世の永遠不滅を信じる信仰は、初代教会の確信であって、このことは、コリントの信徒への手紙一の一五章を読めば明らかである。これこそが、幾多の迫害の中でクリスチャンが殉教の血をもって死守してきた信仰の生命線なのである。

一方、仏教における霊魂不滅の信仰の起源は、キリスト教よりもはるかに遅れている。釈迦牟尼の根本仏教思想は、人間以上の拝むに価する神を認めず、また人間の霊魂の未来を信じない「無我」、すなわち無神無霊魂説であり、単に業の輪廻を認めるに過ぎなかったのである。業(ごう)とはカルマのことであり、人の思想や感化、行為などが残るのみで、我という霊魂や人格などの永続を認めない。このことについて、インドのラクシュミナラスは「輪廻する自我もないのに、死後、罪悪や利己欲に報いがあるということは、個人と人類全体とを離れては、それらは何の意味も効力もありえないということなのである。」と言っている。帝国大学教授であった故木村泰賢氏は、原始仏教思想論の中で「他宗教では、霊魂の死後相続を説明するのに、自我という鉄砲玉が業という火薬の力によって送られて一定の場所に行き、更にそれより新しい火薬によってよそへ送られるのが霊魂不滅に基づく輪廻である、というのに対して、仏教においては、その鉄砲玉の恒存を否定しながら、いわば火薬とその力とによる輪廻を認めた形になった」と言っている。その鉄砲玉とは霊魂のことであり、その霊魂の不滅を否定しながら、一方では人の思想や行為などが次の時代へ伝えられていくのだということを説明しているのである。つまり最初の仏教は、このように霊魂の不滅を信じなかった宗教だったのである。

これを専門用語では無と名づけている。無から有に進み、業の輪廻よりも進んで霊魂の輪廻を説くようになったのは、釈迦の死後四百年ないし五百年後のことであるが、これも仏教全体の思想ではなく、ただ一部分の宗派の思想に過ぎなかった。それが後にバラモン教の霊魂輪廻説を模倣した釈迦の前世物語を神話とした本生話(ほんしょうわ)文学が創作され、その後、大乗教(大乗仏教)の発展と共に、紀元一世紀以後、キリスト教の影響を受けた浄土他力思想が起こってきたときに、初めて霊魂不滅の信仰が登場したのである。

キリスト教では、キリストの復活に霊魂不滅の根拠を置いており、さらにキリストのご復活に際した証人たちの証しに重きを置いてその霊魂不滅の信仰が確信されたのに対し、仏教では釈迦の前世物語(神話)から始まって法身常住説(ほっしんじょうじゅうせつ)となり、更に進んで霊魂不滅を説明しようというのだから、実にその根拠の薄弱なことに驚かざるをえないのである。釈迦の前世物語というものは、神話に属する想像説であり、これを基礎として法身常住説などが生まれてきたのだから、その根拠は薄弱である。これに対して、キリスト教は、実際にあった歴史上の事実を根拠としているから、それが確信となって現れているのである。

それならば、仏教における霊魂不滅の発達はどんな経路を経てきたかと言えば、それは仏身論と一切衆生悉有仏性論(いっさいしゅじょうしつうぶっしょうろん)との発達に基づくものである。仏身論とは釈迦の身位論のことである。釈迦を失った弟子たちはこれを憧憬するあまり、「その肉身が滅しても法身常住する」と阿含経などの原始小乗仏教において説かれていた。後に大乗教、すなわち紀元2世紀ごろに阿彌陀経と前後して著述された法華経においては、如来の久遠無量寿説となり、さらに紀元3世紀前後の頃に著述された涅槃経にあっては、応身法身の二諦観と名づけて、釈迦は法身が肉身を取って現れたものであるとし、あたかもキリスト教の神子受肉降誕(インカーネーション)のような説を唱えるようになった。もちろん、この如来無量寿説や涅槃経の二諦観は、キリスト教の影響を濃厚に受けていることは明らかである。なぜなら、紀元2、3世紀の頃には、インドに多くのキリスト教会が建設されていたからである。

このようにして仏身論は頂点に達し、釈迦の永遠性を説くようになったので、これに継いですべての人類の永遠性をも考慮しなければならなくなった。その経緯はこのようなものである。仏教は、紀元前2世紀の頃から中央インドを離れて、南北両インドに伝道された。北インドに伝わった仏教は特別な環境下にあった。そこには東西交易の要、シルクロードが通っていたのである。そこで、ペルシャ教、ユダヤ教、ギリシャ・ローマの宗教、キリスト教を信じる人々と接触することによって、北インドの仏教は変容した。すなわち、人類の未来を説かない無我の宗教、すなわち無神無霊魂の宗教では、他の宗教に圧迫されるのみならず、仏教信者をも満足させることはできず、異教に改宗するものの多さに驚き、ついに無神無霊魂の看板を塗り替えて、霊魂の未来性を説くようになったのである。

それが、涅槃経の中で「一切衆生、悉く仏性あり(いっさいしゅじょう、ことごとくぶっしょうあり)」と説いている悉有仏性説(しつうぶっしょうせつ)であるが、それは、キリストの弟子のトマスがインドへ伝道に行った紀元50年よりも200年も後のこと、すなわち釈迦の滅後からは700年以上も後に書かれたものである。

もし、たとえ法身常住説が成り立ったとしても、涅槃経よりも先に出た般若の空観があるために、人類の永遠性を哲学的汎神論に見ていくので、大乗の哲学的仏教においては、未来における人類の個性を認めていないのである。これを如実に説いているのが禅宗である。禅宗の歌の中に、「雨あられ雪や氷と隔つれど 融くれば同じ谷川の水」とあるように、死ねば、すべてはことごとく平等一如の海に入るということを、雨あられ雪や氷などは、形は違っても溶ければすべて同じ谷川の水になってしまうのと同様、と歌ったのである。その一如海では、優劣や知識のあるなし、知恵のあるなし、老若男女の区別はなく、ことごとく平等一如の水に溶けてしまうのであるから、人格の差異はないというのである。これは、織田信長時代に渡来したキリシタン宣教師(バテレン)に対して「霊魂があるというならば見せてみろ」と迫った仏僧がいたことでも明らかである。

京都紫野大徳寺の住職、かの有名な一休禅師の檀家に魚屋の六兵衛という人がいたが、ある日ふぐを食べて死んだ時の引導に「魚屋の六兵衛、ふぐ食うて死す、行きたい所へ勝手に行け、喝!」と言ったのは名高い話である。これは、仏教の哲学説からいうならば、汎神論の過去、現在、未来の三世が一如となるのだから、行っても行かなくても同じことだということになるのである。つまり、こうした哲学思想からいうならば、祖先崇拝ということは迷信の部類に属するものなのである。禅宗は「信心禮佛(しんじんらいぶつ)これ方便なり」とするからである。

ここに一言付け加えておきたいことは、釈迦の宗教思想は霊魂の未来を認めない現世教であったため、釈迦の在世中は誕生、結婚、死去などに関する儀式はすべて、在来の宗教であったバラモン教の祭司がしていたのであり、仏教教団はこれらの儀式には関係しなかったのである。それは釈迦の戒めとして在家の葬式に関係することを禁じ、「葬事に関係することは、軽垢罪である」という戒めを制定したほどであった。また、中国でできた梵網経の四十八軽戒の第十二戒には「死人を入れる棺桶を売買したり、作ったりしないこと」と戒めてある。仏教の歴史では、葬式のお供養をもらうこと、死者の着物をあずかること、葬式の傍に近づくことすらも、すべて罪としたのである。だから、死者の祭りをするというようなことは、仏教最初の信条ではなかったのである。



   目次へ   次へ


  附 註

初めて仏教の歴史やキリスト教の歴史に触れる方々のために、仏教とキリスト教とを比較しながら、その一部を年表として附註する。


▽722-572B.C.
イスラエルの滅亡とバビロン捕囚が起こる。以後ユダヤ人は世界の諸国に散在し、インドにも移住していたので、旧約聖書はバラモン教や釈迦の宗教などに影響を与えている。
▽560B.C.
釈迦牟尼が誕生する。480B.C.に入滅する。
▽272-226B.C.
インドのアショーカ王によって、釈迦牟尼の骨を祭る仏塔の建立が始まる。
▽A.D.1
救い主イエス・キリストご降誕。
▽A.D.50-
この頃より北部インドガンダーラ地方で、ギリシアの神像を模倣した仏教美術が起こり、はじめて仏像が出現する。これをガンダーラ式仏像と呼ぶ。

▽紀元前から紀元400年頃までに、パーリ語とサンスクリット語との混交する仏教経典が製作される。これを混交梵語文学という。

▽A.D.50-75
使徒トマスがインドに伝道し、その他のキリスト教徒も多数、インドへ移住する。キリスト教は仏教に大きな影響を与えた。
▽A.D.50-
仏教美術の流行やキリスト教の影響などにより、大乗教(大乗仏教)が起こる。阿彌陀経、法華経、大般若経などの大乗経典が著述される。文字はすべて梵語であるので、これらを純粋梵語文学と呼ぶ。
▽A.D.150
この頃、初めて中国に仏教が伝えられる。
▽A.D.488-
キリスト教の一派であるネストリオス派は独立してペルシア、インドに伝道する。
▽A.D.600
中部インドで真言密教が創立され、これについで密教式仏像が出現する。この密教というものは、バラモン教とキリスト教との影響を多大に受けたものである。
▽A.D.635
ネストリオス派は中国に伝道し、これを景教と称する。
▽A.D.731
景教の僧、李密が大和(日本)に来朝する。
▽A.D.804
弘法大師空海と伝教大師最澄が中国に留学する。
   目次へ   次へ