序 言

祖先崇拝は、私たち日本人の国民性の一つであり、実にデリケートな点において強い底力を持っているものである。そのため、日本のキリスト教会は、今日までこの問題をなおざりにしてきたのであるが、もしキリスト教会がこの問題を解決するならば、仏教や神道は全く無用であることを知らねばならない。

しかも、祖先崇拝の観念とは、実を言えばキリスト教が仏教に教えたものなのである。ゆえに、キリスト教は、良い実を持ちながら、これを倉庫にしまっておくという、非常に惜しむべき事態に陥っているのである。

著者は、中国の景教研究を執筆したときに、この問題においてのキリスト教と仏教との接触点を発見し、これを出発点として問題解決の一歩を踏み出したのである。

回顧すれば、日本のキリスト教会は、現世的倫理教として輝かしい伝道の歴史を持っている。そして、贖罪を強調する救済観は、ついに未来教として、さらにその福音の光を輝かすべき時代へと到達しつつあるのである。現代人ほど極度に生に執着する傾向のあるものはいないだろう。その生に執着しながら、死にも執着することによって、死の彼岸への憧憬は湧いてくるのである。

見よ、今や科学万能の夢は覚めつつある! あぁ、科学の最善を尽くしてもその生命を寸分も延ばすことができず、最愛の骨肉は暗い死の彼岸へと去っていくありさまの、何と悲しみと嘆きとに満ちていることか。

死! 死を通して……愛する骨肉は何処にありや?…… 生に執着するものは死に執着するものである。宗教に聞こうとする現代の要求とは、ここにあるのである。

一九二九年十一月一日
    南越の巡回伝道より帰りこれを記す 著 者

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改版の辞

私は、もと大阪府河内国にある融通念仏宗の寺院に生まれ、二十八歳まで僧侶として生活し、二十八歳のときキリストに救われ、お寺を捨て、法衣を脱いでキリスト教に改宗したのである。それから約三十年間、牧会伝道の任に就き、特別に一九一九年から一九二二年までと、一九二八年の秋からとは、もっぱら巡回伝道者として全国各地を巡回し、自分が受けたご恩寵の証しをしているが、至る所で聞かされる質問は、「祖先の祭りをどうするか」「仏壇の始末をどうするか」ということである。

何と言っても日本は仏教国であり、仏壇を祭った家庭に育ってきた人々にとっては、キリスト教が仏教よりも優れていることを認めながら、さて祖先の祭りと祖先伝来の仏壇とをどう解決したらよいかということに悩んでおられる人々が多いからである。言い換えれば、もはや仏教の信仰は思想云々ということではなく、ただ単に仏壇という形骸のみで何とか命脈をつないでいるのだから、仏壇の処置さえ都合よく解決すれば、ただちにキリスト教へ改宗するという人々が多くおられることを思わされているのである。ゆえに、そのような人々のために、キリスト教は祖先をどのように取り扱うのかということを説明することは、最も大切なことと思うのである。

この意味において、私は一九二九年の秋に本書を出版したところ、諸方面から多大の共鳴と賛助とをいただき、過去六年間で約六千部を売り尽くすという盛況を得たことを深く感謝するものである。これは先にも述べたように、仏教の家庭から救われたクリスチャンや、求道者の方々が、この問題のために悩んでおられるところへ、本書の出現ということによって、あたかも雲の中の虹を見たかのように歓迎されたものと推察するのである。それは、本書によって入信された人々や信仰を堅くさせられた人々からの様々な事例が、これを証明しているのである。

さらに本書は、その親しい者を失った人々への慰めの贈り物として使用されたり、永眠した故人の記念として親友や知人への贈り物となったり、伝道用として用いられるなど、実に日本の伝道界において最も大切なご奉仕をしてきたことを深く感謝するものである。なお、ここに特筆すべきは、聖公会の祈祷書の中に、死者のための祈祷文を編集されるに当たって、本書は諸式取調委員の参考書となるほどの光栄を得たことである。

こうして本書はなおも続々と諸方面からのご希望をいただきながらも、不幸なことに版型は磨耗して、もはや用をなさなくなってしまったことにより、改版の必要に迫られ、この機会をもって幾分の訂正増補を加えて、ここに改版を出版することとなったのである。

願わくは本書は、主の豊かなる御祝福を受け、さらに幾倍の御用を果たして、主のご栄光を顕すことを願うものである。

一九三六年春
    武蔵野上高田の仮住まいにて 著者記す



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